引き抜きという言葉は強い感情を呼び覚ますものです。人間ですから感情で動いたらあかんで、そういう風にも思うんですが、引き抜き!なにぃ!!ひでえことをしやがる!!とついべらんめえ調で訴えたくもなるというものではないですか。
ただ、そんなナイーヴなことを言ってたらいかんぜよ、世の中は非情であって、生き馬の目を抜く、それがビジネスであり、世の常であり、人間のエゴであり現実なのだ。そういうのを判った上で、その上でどうするかを探っていく、それが人生というもんです。世の現実は厳しく、ドライだ。
何が起こったか、2段落もの無駄な文字打ちに徹した後ここにそれを開陳する。ってそない仰々しい話ではなくてですね、あ、でも仰々しいかも。なんにせよタイトルにあるとおりなんですよね。実情がどうだったのかということはもちろん私らには見えないわけですけれど、形としてはこうだ。ミネソタ管弦楽団に新しく首席トランペット奏者として入団した若き傑物、ジェームズ・ヴォーン(23)が、なんと入団からたった2ヶ月でフィラデルフィア管弦楽団の新首席トランペット奏者として選ばれ入団することが決まったというお話なのです。あ、引き抜きという言葉は適切ではないかもですね。自ら主体的に動いて、オーディションに応募して決まったって可能性が高いですよね。
しかし、なんというか、石の上にも三年という言葉がわりと好きだったりもする昭和世代の私からすると、こんな不義理な話があってよいのか!!と動揺し慄然とし、上を下への大騒ぎになるわけですけれど(大げさ)、アメリカの方からすると、いやなんとなれば日本の若い方々からすればごく普通のことかもしれませんね。レブレヒトのブログのコメント欄にも、ミネソタの人物らしく方のコメントの書き込みがあって、「楽しみにしてたけど。次の奏者は長く留まってくれることを願っている」と、意外にこう、なんていうか、さらっとしているというか、しゃーないなあ、みたいな風に書かれていて、文化の違いですかなあ、と勝手に感慨に耽るわけです。
フィラデルフィア管弦楽団の方がミネソタより上かどうかという議論はともかく(そういう風に感覚的に理解される方も少なくはないだろうと思うものの)、こう、未来ある若者の選択を尊重し、グレートな活躍をしてくれればいい、という、なんかこう、囲い込み感っての?そういうのがないのは新鮮な感じというか、そうあるべきなのかもというか。ちょっとクールすぎやしない?みたいに感じるのはきっと私が間違っているのだろう。
フィラデルフィアも、彼がもっとよいオーケストラに移っていくことがないよう祈るしかない!
というコメントもあって、せや、人の選択は尊重されなければならぬな!と思いました。一抹の寂しさのようなものがないわけではありませんけれど(ミネソタからフィラデルフィアへ行ったという事を指しているわけではなく、なんとなく、ふわっと。って書けば書くほど言い訳じみてきますねこれぐらいにして朝ご飯を食べてきます1階にある松のやで)。


コメント