ワルシャワにある有名なショパンの銅像が造られ、破壊され、再建にいたるまでの数奇な運命とは

今年秋のショパン国際コンクールが待ち遠しいという方も多くおられるかと思います。前回以上に予備審査から大きな反響があって、注目度はさらに高まっているような気がする、と、あるメディア関係者の方から聞きました。YouTubeの再生数も前回をおおきく上回っているのだとか・・・・・・。

恐るべしショパン国際コンクールであります。そんななか、大変興味深い記事を見かけました。ワルシャワの公園にあるショパンの大きな銅像。それがどういう経緯で作られることになったのか、というお話です

当時ロシアに占領されていたポーランドがどうやってこの銅像の許可を取り付けたのか。どのようにしてこの銅像の制作家が決められたのか。など。知らんかったで的な話がたっぷり書かれていて、ほえーほえー、とおめめぱちくりやったですわ。世の中は知らない事だらけだ!!

1908年にコンペが行われ66もの応募があったこと、コンペを制したシマノフスキ(作曲家とは別人)は第57番だったこと、シマノフスキはコンペの5年前には設計を終えていて、選定委員会の設けた基準のいくつかを満たしてなかったにもかかわらず、満場一致で選出されたこと。

決定が発表されると大きな議論が巻き起こったこと。しかしポーランドの多くの人は賛成したこと。そのあと、ロシアの許可を取り付けるのが大変だったこと、さらにはシマノフスキがフランスで鋳造することを求め、その費用が莫大だったこと。1914年5月にようやくパリの醸造所が選定され、1/1スケールの石膏の型が分割されてフランスに送られることになったが送られる前に戦争(第一次世界大戦)がはじまってしまって製造が遅れ、終戦時には製造所が倒産?してしまっていたこと。

さらには戦争後にルーブルの価値が暴落したこと(てか当時の通貨はルーブルだったんですね、当たり前と言われればそうなのかもしれないけれど)。それでもシマノフスキは諦めず新たな委員会を1923年に結成し、資金集めが行われたこと。ようやく寄付金が集まり、政府からも助成金がもたらされ、1926年6月に完成したこと。

しかしこれで終わりではなく、像が第二次世界大戦でナチスによって破壊された。しかし1946年、戦後になってシマノフスキの家から回収された高さ87cmの模型から再建されたこと、、、、。

いやー、濃い、いろいろと濃すぎる!!

ショパンがポーランド人にとって大きな存在であると言うことを改めて知らされた朝であった!!

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