驚きのニュース。ヴォスクレセンスキー、亡命。
1935年生まれ。モスクワ音楽院の教授として長く強い影響力を持ったピアニスト。日本人の弟子も多数いて、反田恭平の師でもあります。妻子とともにアメリカに亡命したというニュースを発見しました。
どうやら長期にわたって計画された亡命までの経緯や、アメリカに到着するまで、そして到着してからも続いたハラハラするような綱渡りのストーリー、その全体は以下The Atlanticの記事をgoogleにでも訳してもらいながらお読みください。これはいつの時代ですかというようなハラハラの連続です。
https://www.msn.com/en-us/news/world/the-defection-of-mikhail-voskresensky/ar-AA13oNbU
ロシアのワクチン、スプートニクではアメリカに入国が出来ないためトルコに長期滞在してワクチン接種をしたこと、お金がなくてモスクワのアパートを売却しなければならなかったこと、売却で得たお金を西側に送金できなかったのでベトナムに預けたこと、ビザがなかなか取れず最終的にはナポリでとったこと、アメリカについてからもアパートがなかなか見つからなかったこと、スタインウェイ社が楽器を貸与してくれることになったがアパートの階段を通らずだめだったこと(ただいまヤマハのキーボードで練習中)など。
最後のはしかし、ハラハラっていうよりあらあらっていう感じの、それ以外に比べたら微笑する類いのアクシデントですかね。
いまは落ち着いているようです。よかったですね。ジュリアード音楽院でさっそくマスタークラスを開催することになり、3時間の間に49人もの生徒から申し込みがあったとのこと。さすがはヴォスクレセンスキーであります。私が桐朋に通っていた頃(1997-2001)にもマスタークラスでしょっちゅう来日して教えていました。しかしいま87歳という年齢的なことも考えると相当な決意がなければ出来ないことだったであろうと思います。
驚くべきことに上記記事中には、1962年の第1回ヴァン・クライバーン国際コンクールで第3位に入賞したあとに計画されていたアメリカツアーの際、KGBからアメリカにいるスパイ(?)に密書伝達ミッションを与えられ、それを悩んだあげくに断ったっていう事が書いてあるんですよね。そのためツアーはキャンセル、その後13年間ソ連の外に出ることがかなわなかったと。そんなことがあったんですね知らなかった。ってことはまてよ、このとき第2位に入っていたニコライ・ペトロフにも同様のミッションがあったのだろうか、とか想像してしまいますがどうだったんでしょう。
それはさておき、「まだ私はラフマニノフのパガニーニの主題による狂詩曲を弾けるぞ」と仰っているということで、お元気そうであります。87歳、アメリカでこれからもどうかお幸せに!
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