ショパンの命日にショパンとショパンの心臓に思いを馳せる

ファイナリスト11名が発表されています。コンクールをウォッチしている皆様の様々な声があがっています。ピアノのコンクールとは華やかな一面、残酷なものでもあって、一応、数字を出して決めるとありますけれど、スポーツのように数字で優劣がはっきりと出せるものではなく、あの人がいない、とか、どうしてあの人が、とか必ず言われるものです。そもそもが芸術というものの本質とは相容れないはずのものなのです。

昨日ポーランド人の若き鍵盤楽器奏者マチェイ・スクシェチュコフスキ(来年マチェイ君、日本に来ますから愉しみにしていてください!)とケーキ屋さんでお茶をしていて、それを再確認しました。マチェイ君も自分が好きだったピアニストは全員落ちたって言ってました。そもそも再確認も何も、再々々々々々々々々々確認の、さらにその500倍!篠沢教授に全部!とかそれぐらいのわけわかんない感じですが、じゃあなんでコンクールやってんの、みてんのと言われると「なんか気になるから」とかそういう感じではないかなとも思います。人間とはいかに矛盾した生き物なのでしょう。

私は中川優芽花のコンサートを聴きに別会場に行っていたため(なおそちらも押すな押すなの満席でした)最後のセッション4名をライブで聴くことがかなわなかったのですが、さあこの20人の中から選べと言われたら、まあ順当な結果なのではないかと思いました。「もっと聴きたいかも」と思ったポーランド出身のパヴラックがいないのは残念でしたけれど、それを言ってもどうにもしようのないことなのです。これはコンクールなのです。

10月17日はショパンの亡くなった日。パリのペール・ラシェーズ墓地に遺体は葬られましたが、本人の強い希望で心臓だけは切り出され、祖国ポーランドへ。ワルシャワの聖十字架教会に安置されているのです。そこに行くだけでも気持ちがスン!とするのに、命日に人が集まって、これまた本人の希望だったとされる「葬儀ではモーツァルトのレクイエムを演奏してほしい」という遺志がいまも受け継がれているというのはすごい話ですね。行ってまいりました。

ほんで質問ねんけど、ピアノ版だったのはなんでか。なんでピアノだけなの。ご予算の問題か、そんなこたあないだろう、毎回同じだと飽きちゃうんで今回はフォルテピアノにしてみました、ということなんでしょうか。

えっ!ピアノソロなんすか!!演奏はワディム・ホロデンコ??うそ、冗談はよしこくんよしおさんですね?と思いながら会場にいったらほんとうにピアノがチョンと置いてあって、しずしずとホロデンコが登場し、ほんまや、モツレクや。ショパンの心臓と同じ場所に自分がいて、なんとなくショパン自身と同じ時間を共有していたのではないか、と思えば、とてもセンチメンタルな気持ちになります。なんとなれば私はショパンより長生きしているわけで、全く生産性のない自分はなんなのだろう、ちっぽけな自分、という気持ちになります。

次回以降はやっぱオーケストラに、っていうことになる可能性もあるのでいやむしろそうなりそうな気もするので、それはそれで貴重な経験だったかもしれません。お写真とりそこなったんで文字だけですいません。ショパン研究所の投稿を見て雰囲気を感じてみてください。(実は上の写真の道の先にあるのが聖十字架教会で、ほんのちょっとだけ写ってるんですが、あーわかるわかるというレベルではありませんすみません)

しかしこうして我々がぼんやりと音楽を聴いている最中も、ファイナリストたちは体力と精神力を削られながら準備をしているわけで、そういう意味でも複雑な気持ちになりながら、アパートに戻ってビールを飲んで寝ました。11名のみんなもよく眠れますように。全員が最後まで全力を出し切れますように。

私のショパン国際コンクール2025はこれで終わりです。中川優芽花も昨日夕方、ドイツへ戻りました。私はこのあと、可能なら誰もが人生で一度は行っておくべきアウシュビッツへと赴き、人類の負の遺産に触れてまいります。

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